まことのことばはうしなわれ/ 雲はちぎれてそらをとぶ 宮沢賢治

まことのことばはうしなわれ
雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする

おれはひとりの修羅なのだ
           宮沢賢治

写真 千田完治



 4月8日はお釈迦さまの降誕会です。降誕会とは、「釈尊の誕生を奉讃する法会(ほうえ)。灌仏会(かんぶつえ)」(広辞苑)です。
 キリストさまのクリスマスに比べて、地味で知らない人も多い。僧侶たるもの、4月には声を大きくして「花まつりだー」と叫ばなくてはいけないと思う。
 というわけで、釈尊誕生についていろいろな話しや文章があるけれど、今回は河野太通元妙心寺派管長の著作『床の間の禅語』(禅文化研究所)にある「天上天下唯我独尊」を紹介します。
 
 お釈迦さまは、お生まれになるとすぐ、七歩歩かれ、右手で天を指し、左手で地を指して、四方を顧みて、「天上天下唯我独尊」と叫ばれたといいます。
 しかし、いくらお釈迦さまでも、鹿の子でもないのに、生まれてすぐ七歩も歩かれるはずはありません。これは、お釈迦さまは将来お悟りを開き、仏法を広められるようなりっぱな方であるから、生まれた時、すでに六道の迷いの世界を一歩踏み越えておられたのに違いないという仏伝記者の思いからでしょう。
 そこで、「天上天下唯我独尊」と叫ばれたということですが、お釈迦さまも人の子、「オギャー」と叫ばれたに違いありません。この「オギャー」に気がねなぞありません。遠慮したり、誇張したりする思いもありません。そんな分別など一かけらもない無心清浄な天地一杯の「オギャー」です。この尊厳なる生命の雄叫びを「天上天下唯我独尊」と仏伝記者は聞くのです。天地を指し、四方を顧みたというのは、この天地一杯の生命の表現でしょう。
 お釈迦さまと同じく万人も「オギャー」と叫びます。われわれの「オギャー」とお釈迦さまのとの違いはありません。万人等しく生命の尊厳を叫んだのです。さすれば万人一人ひとりがすべて「天上天下唯我独尊」であり、自己に尊厳を見る者は、他のすべてのものに尊厳を見る者であります。また、生きとし生けるもののみならず、広く無生物にいたるまでに、その尊厳を見るとき、菩提樹下成道の「奇なるかな、奇なるかな。一切衆生、悉く皆な仏性を具有す」「草木国土悉皆成仏」の言葉が叫ばれるのです。
 この「唯我独尊」を新聞記者氏や、ある種の辞典や、名のある知識人でさえ、利己的独善の意味に受け取っているのを見ることがありますが、まったく反対の意味のものであることを知らなければなりません。仏教徒の多い国にいてこれですから、その人士の教養の度を疑いたくなります。「我」の字を「皆」に入れ替えて「天上天下唯皆独尊」としたら、この方がまちがわないかもしれません。

 

 ながながと引用したけれど、河野太通老師の文章はわかりやすいでしょう。「ただ我、独り尊し」ではなくて、「ただ皆、独り尊し」ならば、もう少し降誕会も人気が出たろうに、と思うのです。
 いくら要約の得意な人口知能でも、上記の文を伝道掲示版におさまる字数に要約はできないだろうから、宮沢賢治の詩を4月のことばにしました。賢治の詩は難解なのが多いけれど、これは透明ではないですか。熱烈な仏教信者であった、宮沢賢治です。「唯我独尊」を知らないはずはない。だとすると、「おれはひとりの修羅なのだ」は、「独り尊い」のことではないだろうか。