行き行きて倒れ伏すとも萩の花   河合曽良

 

奥の細道 草加松原 写真 千田完治

 10月のことばは萩の俳句です。萩って、9月から10月にかけて咲くのでしょうか。我が寺に萩の花がなかったので、数年前に苗を買って、植えたところ、1年か2年は、まぁまぁー咲いてくれましたが、 ある年突然に枯れてしまった。それから植えていません。
 さて、萩の俳句の背景を大岡信著『第六折々のうた』(岩波新書)から引用します。

 

『おくのほそ道』所収。芭蕉の『細道』の旅は曾良との二人三脚といってもいいほどで、この忠実な弟子の存在は重大だった。その曾良が加賀で腹痛をおこし、一週間余の山中温泉滞在時も、筆まめな彼が日記をつける事さえ怠っている。そしてついに伊勢の親類を頼って一足先に去る。その時の悲壮な心境を詠んだ別れの句がこれ。かりに途中で儚くなろうとも、美しい萩が咲き乱れる野原で行き倒れるなら、むしろ風雅を追う者として本懐です、と。

 

 松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出たのは、元禄2(1689)年5月。芭蕉46歳、曽良41歳の時でした。そして、加賀・山中温泉にたどり着いたのは、陰暦8月5日(陽暦9月18日)。そこから、芭蕉と曽良は異なる道へ歩を進めるわけですが、旅も百二十五日以上にもおよんでいます。「芭蕉には気むずかしいところがあったというから、曽良との間に感情の行き違いが生まれていても不思議ではない」と推測するのは、金森敦子著『芭蕉「おくの細道」の旅』(角川oneテーマ21)です。
 芭蕉は「奥の細道」から5年後の10月12日に、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句を残して大坂で亡くなります。
 曽良はというと、芭蕉の死後16年生きて、九州の島国、壱岐で亡くなっています。なぜ、壱岐なのかは司馬遼太郎著『街道をゆく13・壱岐。対馬の道』(朝日新聞出版)に詳しいから、それを読んで!

 さて、冒頭の曽良の句に注目している財界人がいます。キャノン会長の御手洗冨士夫氏です。今年の2月にもご紹介したけれど、御手洗氏は、令和8年1月の日経新聞「私の履歴書」を連載しています。令和8年元旦に次のように書き始めます。

 

 新しい年がスタートした。不思議なことに、松尾芭蕉の弟子である河合曽良の句を思い出す。
〈行き行きて倒れ伏すとも萩の原〉
 解釈は人それぞれだろう。私が感じるのは「行けるところまで行って力尽きても、理想に近づけたなら本望だ」という深い思いである。昨年9月に90歳の卒寿を迎えた。同年代の人からは「週に何回、出社しているのですか」とよく聞かれる。さいわい、体は丈夫だから、毎朝7時前に出社している。週末のゴルフも欠かしていない。知人から「いつまで仕事を続けるつもりですか」と質問されれば、冒頭の曽良の句を添えて「人生に限りがあっても、夢には限りがないでしょう」と答えている。こじつけではない。私には今も夢がある。

 

 うーん、すごいのひと言。

 

 

 

 

自身の知識や経験を押し付けるのではなく、「坐禅はいいものだ」と届かなくてもいい、いつか届くようにと伝えることをやめないことが大切 松原泰道

 お盆の忙しくて暑いさなかに、出版社から一冊の新刊書が送られてきました。「謹呈」の短冊は添えられているけれど、送り状もない。著者はテレビ画面でおなじみの若手僧侶ではあるけれど、面識はない。著者も出版社も心当たりはないけれど、表紙をかざるイラストは見覚えがありますし、本のあちこちを飾る、手書き風の線は、あの人のデザインにちがいありません。ページをぺらぺらとめくって、本文に入る前付けに、イラストレーション・川口澄子、装丁・山原望の名前があるのを見つけました。松岩寺住職の著書『おうちで禅』と『またまたおうちで禅』のイラスト・装丁コンビが制作に参加した本だったのです。本のタイトルは『ようこそお寺へ』(柏書房)。著者は小池陽人師。お彼岸の九月は、この本から引用します。 
 ことばの主である松原泰道師(一九〇七~二〇〇九)は、仏教書としては空前のミリオンセラーである『般若心経入門』(祥伝社)の著者です。
「伝えることを教えてやめないことが大切」は、泰道師の外孫である東京世田谷龍雲寺・細川晋輔住職が小池陽人師に教えた言葉のようです。この言葉だけで意味はわかりはするのですが、YouTubeの登録者が10万人を超えるという法話の名人・小池師は次のような例話を引いて、より深く言葉の意味を伝えてくれます。以下『ようこそお寺』より引用します。―「わかりやすさ」の落とし穴―と題した一節です。

 

 以前、ニュース番組のメインキャスタに就任された女性アナウンサーとタモリさんの対談を拝見したことがあります。アナウンサーの方が「分からないことがあったら、視聴者が離れてしまうのではないか。だから、万人に分かるような番組をやろうと考えてやってきた」とおっしゃいました。
 それに対してタモリさんは「テレビを過度に分かりやすくしようとするのは、テレビを見ている人をバカにしているのではないかな。子どもから大人、お年寄りまで分かるような番組をやろうと思ったことは、一度もないですね。分かんないところは分かんないでいい。見ている方に立って何かをやったりすることは、ほとんどないのかもしれない。自分が面白いと思うことをやっている」と答えられました。
 この言葉は衝撃的でした、分かりやすさを求めるばかりに、本当に伝えたいこと、やりたいことがずれてしまう。あるいは、受け手に対して、情報を限定させてしまうことがあるのだと気づかされました。仏教を語る法話では、そのような壁によくぶつかります。
 お釈迦様は、悟りに到るための方法(修行)については、「六波羅蜜」(二一ページ)や「八正道」(二六ページ)など具体的に説かれていますが、悟りそのものの内容を言葉では一切残していません。これはつまり、悟りの内容は、「言葉では言い表せない」ものだからだと思います。言葉では言い表せないことを、必死に言葉で伝えようとする。法話とは、そういう矛盾をはらんでいるのだと思います。
 松原泰道老師の「届かなくてもいい、いつか届くようにと伝えることをやめないことが大切である」。このお言葉に、法話の大切な心構えを教えていただきました。

 

 小池師は松原泰道師の名言のあとに、タモリの言葉を持ってくるんですね。タモリの言葉を小池師はテレビで視聴して、ハッとした言葉だから、何かの手段で残して、自分の引き出しにいれておいた。そして、松原泰道師の言葉にハッとして、引き出しからだして、ふたつを結びつけたわけ。お見事です。
 9月は秋彼岸の月。お墓参りだけが彼岸ではない意味を、届かなくてもよいから、伝え続けなくては、と思うのです。

我に似た 遺影ずらりと 夏座敷    竹上三葉

我に似た 遺影ずらりと 夏座敷    竹上三葉

松岩寺本堂と白蓮



 この4月から7月まで理屈ぽっい(つまり長い)言葉が続いたので、8月は俳句でいきます。令和6年8月24日付け、日経新聞朝刊俳壇への投稿句です。
 イメージしてみてください。仏壇が和室にあって、天井の下に横に走る鴨居がある。その鴨居に亡くなったお祖父さんお祖母さんそのまたご先祖の白黒写真がかざってある。ずうっーと血筋が続いているから、自分とどこかが似ている人ばかりだ。という句です。
 畳の和室もなくなって、障子も襖も縁遠くなってしまった現代日本の標準的な家屋ではイメージしにくい句ですが、夏座敷を角川俳句歳時記は次のように説明します。「襖・障子を取り外し、風通しを良くし、簾(すだれ)を吊ったり簾戸をはめたりして夏向にしつらえた座敷のことを教えていう」
 この歳時記の説明のなかで、今となってはもっとも馴染みのないのが簾戸(すど)でしょうか。夏障子、御簾戸(みすど)、葦戸(よしど)とも呼ばれるようです。ようは、障子戸の障子紙の部分が、簾になっている戸のことです。
 夏になると紙をはがして、簾にかえたりするのではなくて、冬の障子と夏の障子が二セットあって、6月頃に倉から夏用の障子をだしてきて、紙の障子は少しばかりお休みいただくという具合です。そんな贅沢なものは、我が寺にはありませんでしたが一度だけ障子の衣替えを手伝ったことがあります。今から40年ほど前になります。由緒ある大寺に短期間ですが居候していたことがあります。食客というのでしょうか。そこで、奥さまから「夏障子に変えるのを手伝ってちょうだい」と言われて、生まれてはじめて簾戸にご対面してのでした。でもはじめてなんて言ったら、お育ちがわかってしまうから、なれた風をしてお手伝いをした記憶があります。あれ以後、簾戸とはお目にかかったことはありません。冒頭の句のお座敷には簾戸があったのだろうか。それとも、簾がある程度の衣替えだったのか。
 それはそれとして、遺影について少し書いておきます。童謡詩人の金子みすゞの遺影です。みすゞは1903(明治36)年に生まれて、1930(昭和五)年に自死しています。みすゞは亡くなる前日、下関の写真館で写真を撮っています。これについて、松本侑子著『100分で名著 金子みすゞ詩集』(NHK出版)に次のような記述があります。
「下関の金子みすゞ研究者の木原豊美氏は、みすゞは自分の死後に『詩集』が刊行された時に載せる顔写真を撮ったのではないかというお考えです。確かに、改まって羽織を着て、眉を太く描き、凛々しい目でカメラを凝視する顔つきは、ひとかどの文学者の風格を湛えています」。
 すごいなぁーー、と思う。みずから命を絶とうとする前日に写真を撮る。普通は遺影用かと想像するけれど、遺影ではない。いつか出版される詩集用の写真だった。けれども、初めての詩集が出版されるのは、死後五四年たった1984(昭和59)年2月にJULA出版局から。
 切ないけれど、すごい覚悟というか執念というか、「私の詩は絶対に日の目をみる」という「思い」。最近、遺影という文字をみると、このエピソードが心に浮かぶ、わたくしです。

 

 

蓮の葉は鏡のように円いというのに 『大慧語録』

蓮の葉は鏡のように円いというのに、同じ池に育つ水草の菱(ひし)は、実がとげとげしていて、まるで錐(きり)のようだ。    『大慧語録』

 

写真 千田完治

 朝七時前に、寺の近くのバス停を通りかかった時のことでした。制服を着た女子高生がひとりと出勤の男性がふたり。合わせて三人が、二メートルほどの間隔をあけてバスを待っています。ほとんど等間隔に立っているので整然としています。そのうえ、みんな同じような姿勢で、同じようにスマホを持ってのぞき込んでいるから、整然をとおりこして超然とした風景です。おそらく、それぞれは知り合いでもないし、赤の他人だと思う。
 何の関係もない人たちが、同じ格好で同じような画面を指でたたいている。こんなことは、過去の日常では絶対見られなかった景色にちがいありません。
 以前だったら(初代アイフォンの発表が2007年だというからそれ以前)、ひとりは新聞紙をひろげて、ひとりは参考書を持って、もうひとりはボッーとしてあくびをしている。そんな光景があったはずです。
 さて、今月の言葉は中国は宋の時代の禅僧・大慧禅師(だいえ=一〇八九~一一六三)の言葉を集めた『大慧語録』に収められています。原文の読みくだし文は「荷葉(かよう)団団(だんだん)として団(まる)きこと鏡に似たり。菱角(りょうかく)尖尖(せんせん)として尖(するど)きこと錐(きり)に似たり」
 冒頭にかかげたのは私の現代語訳です。毎度お世話になっている白川静『常用字解』(平凡社)によれば、「荷」は「草の名としては蓮をいう」とあるから、荷葉で蓮の葉。これは、目にイメージを結ぶことができるのですが、菱(ひし)がわからない。『角川・俳句歳時記』は、「菱の実」を秋の季語として次のように説明してくれます。
「菱は池や沼に生える一年草。夏に白色の四弁花を水面に開き、花後結ぶ実は菱形で、左右に二個の角がある。若いうちは生で食べられるが、熟しすぎたものは茹でたり蒸したりして食べる」
 無教養無粋者で、菱なるものを見たことも食べたこともありません。一度、お目にかかってみたいものですが、今月の言葉の意味をもう少しかみ砕いてみると、同じ環境にあっても、円い蓮の葉が育ち、とがった実を結ぶ植物も生い茂る。同じように人にはそれぞれの個性があるのだから、異なる気質を大事にしなくては!
 禅には、「それぞれの個性を大事にしなさい」という言葉は多いのです。いくつか例をあげてみます。「鶏寒くして樹に上り 鴨寒くして水に下る」とか、「一樹の春風両般有り、南枝は暖に向かい、北枝は寒」などなど。なんて禅語をひっぱってきて、坊さんは知ったかぶりして、いやだねー。そんな難しい言葉を使わなくても、金子みすゞの「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」でじゅうぶんではないか。
 それにしても、みんなちがわないで猫背になってスマホをのぞく現代の風景は悲しいな。と思うのです。

過去の心は過ぎ去り、現在の心もとらえようがない。未来の心はまだ来ていない。 『金剛経』

過去の心は過ぎ去り、現在の心もとらえようがない。未来の心はまだ来ていない。つかみとれる心は何もない    『金剛経』

写真 千田完治

 毎月の言葉を見つけるために、名言をタイトルにした本が書棚に何冊もあります。ざっとあげてみましょうか。
 坪内稔典『四季の名言』(平凡社新書)、NHKラジオ深夜便『絶望名言』(飛鳥新社)、晴山陽一『すごい言葉』(文春新書)、蓮沼直應『鈴木大拙一日一言』(致知出版社)、金田一春彦『ことばの歳時記』(新潮文庫)、五来重『宗教歳時記』(角川ソフィア文庫)。まだまだいっぱいあるぜ!最近はもう買わないようにしているのですが、いつの間にか、ずいぶんとたまってしまいました。
 アンソロジーというか、選集というのでしょうか。こういう本が次つぎと世に出るということは、私のようにお寺の掲示版に使おうという不純な動機だけでなくて、小気味よく愉快な言葉を、生きていく杖ことばにしようとしている、純な読者がおおいのでしょう。
 ということは、選集アンソロジーから拾ってきても、知らなかっのは不勉強な坊主だけで、世には知れ渡っている言葉だったりします。そんなわけで、選集やアンソロジー、詞華集からは引っぱってこないようにしている、昨今です。
 前置きが長くなりましたが、『金剛経』というお経があります。禅宗で声を出して読むお経としては一番長い経典です。32の段落からできていて、全部を読誦すると一時間はかかります。
 今月の言葉はそのなかの一節です。原文は「過去心不可得(かこしんふかとく)、現在心不可得(げんざいんしふかとく)、未来心不可得(みらいしんふかとく)」。原文のリズムがよいためか、おしゃれな現代語訳を探したのですが、見つかりません。冒頭にかかげたのは、拙いワタクシ訳です。
 適当な現代語訳は見つからなかったのですが、「つかみとれない心」を説き明かしてくれる文章をみつけました。解剖学者の養老孟司さんです。『バカの壁』の著者は数年前からガン治療を受けています。その様子が新聞紙上に連載されていました。連載の最終回に次のように書かれています。「向き合う」というタイトルで、掲載された新聞記事の一部を引用します。

 

 がんが再発して、副作用で体のだるさは感じる。そして死がより具体的になった。残された時間を考えはするが、変わらず淡々としている。自分の死を考えることは無意味だと思っているからだ。ただ以前に比べ家族に任せよう、家族が悔いがないようにと思うようになった。
 最近つくづく感じるのは「病気と折り合うには芸がいる」ということ。本音を言わない芸とでも言いましょうか。お袋が「長生きするにも芸がいる」と言っていたのがよく分かる。88歳になった。中世の人は「メメント・モリ(死を思え)」と一方が言うと「カルペ・ディエム(今を生きよ)」と返していた。死を思いつつ、よく生きる。若い人には、都市化された今の時代にあっても、これについてよく考えることをお勧めしたい。(令和8年5月30日・日経新聞朝刊)

 

 引用したのは全文の半分ほどですから、長い文章ではありません。筆者が「ふふーん」と思ったのは二つあります。ひとつは「自分の死を考えることは無意味だと思っているからだ。」
 最近の風潮は、「死をさけずに終活しなさい」。つまり、やがてやってくる未来の心を予習しておきなさいという。なのに、「自分の死を考えることは無意味だと思っているからだ。」というのは、今の風潮に逆らっている。時代の空気に逆らうということは、みんなとちがうことを言うわけで、同じでないから新鮮。これは鮮やかな名言ですね。
 そして、ふたつめ。〈「死を思え」と一方が言うと「今を生きよ」と返していた〉。というのは、まさしく「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」ですね。つまり、過去にとらわれず、現在にかたよらず、未来にとらわれない。そんなことを教えているのが、今月の言葉の「心」だとおもうのです(おいおい、心には実体がないといっているのが、今月の言葉ではないのか)。

河底の浅い小川の水は音を立てて流れるが、大河の水は音を立てないで静かに流れる 釈尊

 五月晴(さつきばれ)の空が広がる季節です。でも、なぜか五月雨(さみだれ)という言葉もあります。どういうことなのか。

撮影 千田完治

 五月晴は青葉若葉が目にしみる大空を表すのではなく、もともとは梅雨空のほんの少しの晴れ間を意味したのだそうだ。五月雨も現代の五月には降りません。今でいえば、六月下旬から七月に降る梅雨のことです。このやっかいなずれは、ご存じのとおり、明治五年以前の暦と、現代の暦が異なるから。
 倉嶋厚監修『雨のことば辞典』(講談社)という名著があります。倉嶋氏(一九二四~二〇一七)は、気象庁主任予報官をつとめた科学者です。本の帯には「雨のことばだけを1190語集めたユニークな超辞典」とあります。ことばの出典と例話は、万葉集から始まり司馬遼太郎、角川春樹の俳句にいたるまで、監修者の博識に感心するばかりです。よく知られた雨のことばをあげれば、五月雨をこう説明します。「(さみだれ)の(さ)は五月の(さ」と同じで、神にささげる稲のこと」。そして、次の俳句をあげます。

 五月雨をあつめて早し最上川    松尾芭蕉
 さみだれや大河を前に家二軒    与謝蕪村
 五月雨や上野の山も見飽きたり    正岡子規

 五月雨の句は、ほかにもいっぱいあるだろうに、この三つを載せたのには深ーい意味がある、と思う。正岡子規は松尾芭蕉の「五月雨」の句を『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』で、「あつめてといふ語はたくみがあって甚だ面白くない」と批判しているのです。「たくみ」とは、「たくらみ、計略」のことでしょう
 短歌俳句の革新者からそういわれてしまうと、「うーん、確かに蕪村の句の方が絵画的で静けさがある」なんて思ってしまうのは、素人の浅はかな変節です。辞書の性格から、そのことを書かないのは、科学者である倉嶋氏の奥深さでしょうか。筆者などは博学の振りがしたくて、こうやって説明してしまいます。言わなくてもよい解説は騒音です。
 
 ところで、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅は、元禄二年(一六八九年)三月下旬にはじまります。これも、現代の暦に直すと五月中旬で、今の県名にすれば山形県を流れる最上川の河畔に立ったのは、新暦七月中頃になるという。しかも、芭蕉は「最上川」の句をよむ前日、立石寺に立ちより、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を作っています。
 さて、インドのガンジス川中流域をくり返し行き来した釈尊も、川に関することばをいくつものこしています。『スタッニパータ』と呼ばれる最も古いお経に、次のようなことばが収められています。「河底の浅い小川の水は音を立てて流れるが、大河の水は音を立てないで静かに流れる」
 もちろん、川の水にたとえて人のありさまを教えています。近くにいませんか。ピイチクとうるさいのが。私は言葉少なく、静かな人間です(と思っている)。でも、緊張がとけると、しゃべりすぎます。それを後で思い出し、自分で自分がいやになるのがいつもです。おだやかな気分をたもつには、広く青い現代の五月の空のように静かでいること。わかっちゃいるけれど、それが難しい。

 

まことのことばはうしなわれ/ 雲はちぎれてそらをとぶ 宮沢賢治

まことのことばはうしなわれ
雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする

おれはひとりの修羅なのだ
           宮沢賢治

写真 千田完治



 4月8日はお釈迦さまの降誕会です。降誕会とは、「釈尊の誕生を奉讃する法会(ほうえ)。灌仏会(かんぶつえ)」(広辞苑)です。
 キリストさまのクリスマスに比べて、地味で知らない人も多い。僧侶たるもの、4月には声を大きくして「花まつりだー」と叫ばなくてはいけないと思う。
 というわけで、釈尊誕生についていろいろな話しや文章があるけれど、今回は河野太通元妙心寺派管長の著作『床の間の禅語』(禅文化研究所)にある「天上天下唯我独尊」を紹介します。
 
 お釈迦さまは、お生まれになるとすぐ、七歩歩かれ、右手で天を指し、左手で地を指して、四方を顧みて、「天上天下唯我独尊」と叫ばれたといいます。
 しかし、いくらお釈迦さまでも、鹿の子でもないのに、生まれてすぐ七歩も歩かれるはずはありません。これは、お釈迦さまは将来お悟りを開き、仏法を広められるようなりっぱな方であるから、生まれた時、すでに六道の迷いの世界を一歩踏み越えておられたのに違いないという仏伝記者の思いからでしょう。
 そこで、「天上天下唯我独尊」と叫ばれたということですが、お釈迦さまも人の子、「オギャー」と叫ばれたに違いありません。この「オギャー」に気がねなぞありません。遠慮したり、誇張したりする思いもありません。そんな分別など一かけらもない無心清浄な天地一杯の「オギャー」です。この尊厳なる生命の雄叫びを「天上天下唯我独尊」と仏伝記者は聞くのです。天地を指し、四方を顧みたというのは、この天地一杯の生命の表現でしょう。
 お釈迦さまと同じく万人も「オギャー」と叫びます。われわれの「オギャー」とお釈迦さまのとの違いはありません。万人等しく生命の尊厳を叫んだのです。さすれば万人一人ひとりがすべて「天上天下唯我独尊」であり、自己に尊厳を見る者は、他のすべてのものに尊厳を見る者であります。また、生きとし生けるもののみならず、広く無生物にいたるまでに、その尊厳を見るとき、菩提樹下成道の「奇なるかな、奇なるかな。一切衆生、悉く皆な仏性を具有す」「草木国土悉皆成仏」の言葉が叫ばれるのです。
 この「唯我独尊」を新聞記者氏や、ある種の辞典や、名のある知識人でさえ、利己的独善の意味に受け取っているのを見ることがありますが、まったく反対の意味のものであることを知らなければなりません。仏教徒の多い国にいてこれですから、その人士の教養の度を疑いたくなります。「我」の字を「皆」に入れ替えて「天上天下唯皆独尊」としたら、この方がまちがわないかもしれません。

 

 ながながと引用したけれど、河野太通老師の文章はわかりやすいでしょう。「ただ我、独り尊し」ではなくて、「ただ皆、独り尊し」ならば、もう少し降誕会も人気が出たろうに、と思うのです。
 いくら要約の得意な人口知能でも、上記の文を伝道掲示版におさまる字数に要約はできないだろうから、宮沢賢治の詩を4月のことばにしました。賢治の詩は難解なのが多いけれど、これは透明ではないですか。熱烈な仏教信者であった、宮沢賢治です。「唯我独尊」を知らないはずはない。だとすると、「おれはひとりの修羅なのだ」は、「独り尊い」のことではないだろうか。